毘沙門天について
毘沙門天王は七福神のなかでも福随一といわれ、商売繁昌、家内安全、開運 長久、心願成就の福の神として有名でひろく全国の人々によって信仰されています。
姿形は異像もあるが甲冑を纏う武将像で右手に鉾、左手に宝塔を持ち邪鬼を踏みつける場合が多いが、元々のインドでは、腰衣とターバンを巻いた貴人姿の神だった。
古代インドの神話の中では、北方守護と財宝守護という二つの重要な役割を担った神で、別名クベーラと呼ばれる軍神にして福神であった。梵語名 ビャイシュラバァナの訳で多門天とも訳す。
中国の古い仏書には、敦煌(敦煌)の安西城が敵から攻撃されたとき、毘沙門天が配下のネズミに鎧や馬具の糸を噛み切らせて、敵の大軍を追い払ったので、これより以降、毘沙門天像を楼門上に安置するようになったという話が記されている。日本の場合はむろん、鞍馬寺や東寺の毘沙門天は、平安京の守護神としての役割を担っていたが、一方では後世になるほど、財宝をもたらす現世利益の福神として庶民の信仰を集めた。 また、毘沙門天のみがヒマラヤの北方にあるコータン地方に於いて福財があると篤く信仰された事によって日本でも四天王の内一尊だけが単独で崇拝されている。
チェーホフの「桜の園」について
なぜここに「桜の園」の説明?と思う方もいらっしゃるでしょう。ですがここに説明だけは書こうと思います。「桜の園」とはご存じチェーホフの四大劇の最後の戯曲です。急変した現実を理解できず華やかな昔の夢におぼれていたため、先祖代々の土地を手放さなくてはならなくなった貴族階級の哀愁を描いた作品です。この戯曲には二つのテーマ、すなわち過去との決別と、未来への出発が描かれている。古い生活とその詩情が滅びていくのを感じながら同時に醒めきった冷静な目で、いたずらに過去にすがりつく人々の愚かさ滑稽さを眺めていたことが知ることが出来る。この作品を書いた五ヶ月後チェーホフは亡くなった。
今回、「桜の園」の人物 87歳になる老僕フィールスの台詞を引用しました。
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上杉謙信について
上杉謙信は、幼名を虎千代、元服して長尾景虎と称した。天文十七年に兄晴景と争い、守護上杉定実の調停で長尾の家督を譲られ春日山城主となった。以後、戦国動乱の時代にあって、紺地日の丸、白地に毘字の旗幟をなびかせて、北陸・信濃・関東に出陣を重ねた。1553年〜1564年に宿敵武田信玄と五度にわたる「川中島の合戦」は戦国時代の合戦中の白眉として名高い。4度目には一騎打ちがあったと伝えられている。永禄四年、上杉憲政から家を譲られ関東管領職に就き、上杉政虎、ついで輝虎と名乗る。のち出家して謙信を称した。天正四年、本願寺と和睦し、織田信長との同盟関係を断ち、はるか遠く中国筋の毛利氏と連携して織田信長挟撃を策した。翌年九月織田方の能登七尾城を陥し、ついで信長軍を加賀手取川に撃破した。しかし、翌天正六年三月、関東への陣触れをした直後、脳溢血で倒れた。享年四十九歳。謙信は戦国武将としては所有欲をもたない人物であり、城主になったのも、家臣に請われてのことである。戦いは常に正義を問い、不義なるものを憎んだ。彼の祀る毘沙門天も正義を知らしめる鬼神である。戦さは正々堂々と陣をはり、戦さが終わると、領地さえ奪うことなく、撤退した。
また、「敵に塩を送る」この有名な言葉は謙信から生まれた。1567年、信玄と対峙した今川は、助けを謙信に求め、甲斐への塩を止めるよう申し入れたが、謙信は「戦いは弓矢でするもの、米や塩ではない」と断った。宿敵、信玄を追い込むチャンスであったのに、と誰もが思うが、これが謙信の義である。
もっと上杉謙信を知りたい方はこちら→http://www.www2.harimaya.com/uesugi/
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