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空気ノ機械ノ尾ッポvol.8
〜タタカウ〜

 


Cast 原寿彦 / 松川晃子 / 平純一郎 / 山口洋哉
   高橋清彦(アクターズオフィス)
   滝友美 / 膝井瑞紀 / 市橋朝子

Stuff 照明:池田圭子 / 宣伝美術:井手口智人
   音響:仙浪昌弥 / 舞台監督:岩間麻衣子



vol.8 チラシ

vol.8〜写真1

Story内容

掃除人の悩みは毎日降り積もるホコリ。三人の男の悩みは毎日発散できない鬱憤。大きな荷物を持った女の悩みは、毎日 日に日に重くなる荷物。そんな日々の一日。大きな袋に素敵な物をたくさん入れたいと日々願う背負い人達が、とても綺麗な紙に祈りを込める。

台本抜粋

〜シーン「荷物」より抜粋〜
村上       ちなみに先輩
女          先輩って、やだな、何?
村上       何入れているんすか?
女          そんなこと、あんたに言えないね
              何もかも見せちゃ底が知れる、見ぬが仏、知らぬが花よ
              あんたなんかに見せられない。
村上       …なんか…良かった、あなたに会えて
女          どういう意味? 
村上       いえ…なんか…わかんないけど…やってみます。
     はい、やってみます。
     …この袋、絶対あなたのより大きくして見せますよ。
女            ホント? 大変だよ、すごい大変だよ、いや、ホントに
村上       その大変は…良いんじゃないか。良いんじゃないか?
              なんかすごい嬉しい悲鳴でしょ
女          …う…ん…
村上       何もかも、話すと底が知れる。 どうやら、
         今はやるしかないらしい……それじゃ…(村上去る)
女             変な奴…

舞台風景

大切なモノをなくしてしまうほどのモノの量が必要で、段ボールや紙を舞台一面にばらまく。楽屋は客席から丸見えの奥面に位置し、その楽屋壁面にある大鏡から見える反面する舞台は右の写真。虚偽なようで真実。こんがらがる中、モノが散らばる。

 vol.8〜写真2


ご挨拶

 冬のど真ん中のホントに寒い中、ご来場いただきありがとうございました。
 今回、台本を書くにあたり、座長原氏の意見を大幅に取り入れています。原さんは戦国ものの小説が大好きです。私はといえば日本史、世界史ともに赤点をとるほどの苦手分野です。「戦国武将を知らなすぎ」と変な勉強会を開かれてしまいます。そんな中、右記に詳細を書きましたが上杉謙信が懐に毘沙門天を入れて戦いに行った話を聞かされました。聞かされたと書くと叱られるかもしれませんが、実際そんな感じです。何故そんなにまでも彼が熱くなるのか…これが今回の台本を書く発端です。
家に帰り調べてみると、事実、どうだったのかはわかりませんが、上杉謙信は女性だったという説等もあり、なにやら沸々といろんな事を想像させてくれます。なぜ、毘沙門天だったのか…なぜ、そこまで、不義を嫌ったのか…どうして結婚もしなかったのか…なぜそこまでして戦ったのか…。
沸々と昔はどんなだったか、今がどうなのか…考えたり感じたりしていく内、なぜか「タタカウ」という言葉を思うのです。「タタカウ」という文字を「戦う」や「闘う」にすると戦争や暴力などを今は感じてしまいます。だからタイトルは「タタカウ」にしました。私なりの「タタカウ」です。

今回は、叫んで、笑って、喧嘩したり、暴れ太鼓したりなど、空気ノ機械ノ尾ッポらしくスカッとガツッと「喝!」しようと思います。途中、お客様にご協力願うことがあります。是非是非、皆様も一緒にバシッとビシッと喝!しましょう! 
芝居としては時間が1時間30分と少々長いのですが、どうぞ一緒に楽しんでください。
著:松川晃子

毘沙門天について
毘沙門天王は七福神のなかでも福随一といわれ、商売繁昌、家内安全、開運 長久、心願成就の福の神として有名でひろく全国の人々によって信仰されています。
姿形は異像もあるが甲冑を纏う武将像で右手に鉾、左手に宝塔を持ち邪鬼を踏みつける場合が多いが、元々のインドでは、腰衣とターバンを巻いた貴人姿の神だった。
古代インドの神話の中では、北方守護と財宝守護という二つの重要な役割を担った神で、別名クベーラと呼ばれる軍神にして福神であった。梵語名 ビャイシュラバァナの訳で多門天とも訳す。
中国の古い仏書には、敦煌(敦煌)の安西城が敵から攻撃されたとき、毘沙門天が配下のネズミに鎧や馬具の糸を噛み切らせて、敵の大軍を追い払ったので、これより以降、毘沙門天像を楼門上に安置するようになったという話が記されている。日本の場合はむろん、鞍馬寺や東寺の毘沙門天は、平安京の守護神としての役割を担っていたが、一方では後世になるほど、財宝をもたらす現世利益の福神として庶民の信仰を集めた。  また、毘沙門天のみがヒマラヤの北方にあるコータン地方に於いて福財があると篤く信仰された事によって日本でも四天王の内一尊だけが単独で崇拝されている。

チェーホフの「桜の園」について
なぜここに「桜の園」の説明?と思う方もいらっしゃるでしょう。ですがここに説明だけは書こうと思います。「桜の園」とはご存じチェーホフの四大劇の最後の戯曲です。急変した現実を理解できず華やかな昔の夢におぼれていたため、先祖代々の土地を手放さなくてはならなくなった貴族階級の哀愁を描いた作品です。この戯曲には二つのテーマ、すなわち過去との決別と、未来への出発が描かれている。古い生活とその詩情が滅びていくのを感じながら同時に醒めきった冷静な目で、いたずらに過去にすがりつく人々の愚かさ滑稽さを眺めていたことが知ることが出来る。この作品を書いた五ヶ月後チェーホフは亡くなった。
今回、「桜の園」の人物 87歳になる老僕フィールスの台詞を引用しました。

上杉謙信について
上杉謙信は、幼名を虎千代、元服して長尾景虎と称した。天文十七年に兄晴景と争い、守護上杉定実の調停で長尾の家督を譲られ春日山城主となった。以後、戦国動乱の時代にあって、紺地日の丸、白地に毘字の旗幟をなびかせて、北陸・信濃・関東に出陣を重ねた。1553年〜1564年に宿敵武田信玄と五度にわたる「川中島の合戦」は戦国時代の合戦中の白眉として名高い。4度目には一騎打ちがあったと伝えられている。永禄四年、上杉憲政から家を譲られ関東管領職に就き、上杉政虎、ついで輝虎と名乗る。のち出家して謙信を称した。天正四年、本願寺と和睦し、織田信長との同盟関係を断ち、はるか遠く中国筋の毛利氏と連携して織田信長挟撃を策した。翌年九月織田方の能登七尾城を陥し、ついで信長軍を加賀手取川に撃破した。しかし、翌天正六年三月、関東への陣触れをした直後、脳溢血で倒れた。享年四十九歳。謙信は戦国武将としては所有欲をもたない人物であり、城主になったのも、家臣に請われてのことである。戦いは常に正義を問い、不義なるものを憎んだ。彼の祀る毘沙門天も正義を知らしめる鬼神である。戦さは正々堂々と陣をはり、戦さが終わると、領地さえ奪うことなく、撤退した。
また、「敵に塩を送る」この有名な言葉は謙信から生まれた。1567年、信玄と対峙した今川は、助けを謙信に求め、甲斐への塩を止めるよう申し入れたが、謙信は「戦いは弓矢でするもの、米や塩ではない」と断った。宿敵、信玄を追い込むチャンスであったのに、と誰もが思うが、これが謙信の義である。     
 もっと上杉謙信を知りたい方はこちら→http://www.www2.harimaya.com/uesugi/

 


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